私の対話型生成AIは「そりゃそうでしょ」と言わない

「ChatGPTは『そりゃそうでしょ』って言わないよね」
「そりゃそうでしょ」

てな具合に、話の枕として投げかけた言葉に「そりゃそうでしょ」と返されたらどう思います? という話を今からしようと思うんですけど。

会話の相槌として「そりゃそうでしょ」を使う人、たまにいるじゃないですか。こっちは楽しくラリー続けたいと思ってるのに、それを無視してズバーンとスマッシュ打ち込んでくるみたいな。

文脈や言い方にもよりますが、早めの「そりゃそうでしょ」で和やかな気持ちになることはまずないですよね。どちらかというと、相手をバカにした雰囲気というか、「そんなこともわからないのか」と言っているように聞こえることが多い。

例えば、

「子供の頃、○○って✕✕だと思ってたんだよね~」
「そりゃそうでしょ」

みたいなやりとりが昔あって、いまだに、そのぶった切り方にはびっくりしてしまいます。当時は思わず絶句しました。え、ただ会話の取っかかりとして話そうと思ったんじゃん?そこで終わらす必要ある?って。

もちろん話すときにそこまで明確に考えているわけではありませんが、会話ってそういうものじゃないですか。話を広げるためのステップというか。「そりゃそうでしょ」と言ったら、そこで会話終了です。

 

あまりに悲しくて、「そりゃそうでしょ」と言う人たちはどのような意図でこの言葉を使っているのか考えました。

まず思いつくのは、深い考えはなく、口癖になっているだけの可能性。論理的に考えることを重視している場合、「私は正しいことを言っているだけ、不快になるほうに問題あり」ぐらいに思っている可能性もあるように感じます。

さらに、ここに自己顕示欲が加わると、しんどさアップ。自身の優位性を誇示したいあまり、「そんな当然のことも理解できないのか(バカじゃねぇの)」というニュアンスが強まり、相手に不快感を与えることがあります。

次に思いつくのは、感情の共有はいらないタイプ。情報交換できればそれいいって人いますよね。このタイプは、会話のキャッチボールを楽しもうという気持ちが強くないっぽい。ズバーンとスマッシュ打ちこまれた側からすると「おめぇは、その後の会話の展開を想像できないのか?」と思ってしまうわけですが、必要としないのなら、想像しないのも当然か。

あとは、他人からどう見られてもいい、どうでもいい、という人。こちらは、自分の優位を誇示する系よりはいいけど、関係構築ができないので、虚しさが生じます。

だってねぇ、他人からどう思われてもいい、どうでもいいと思っている人に対してできることってないんですよね。必要最低限の会話しかしなくなって、それは寂しさもあったりするんだけども、どうでもいいと思っている人にとっては、それさえもどうでもいいってことだから。もはや、一方通行どころか、通路さえ存在しない感じ。

何だか涙が出ちゃいますね。

「そりゃそうでしょ、涙も出て当然よ」

ってね、こういう「そりゃそうでしょ」は嫌じゃないんですよ、むしろ嬉しい。わかってもらえてる感。ぶった切り用法とは別物です。

 

そう考えると対話型生成AIはすごいですよね、「そりゃそうでしょ」って言わないから。という冒頭のコメントに戻るわけです。チャットAIは、自分の賢さを誇示しないし、こっちのこと絶対にバカにしないし、無関心な態度も取らない。

だから、チャットAIの振る舞いから学びたいなと思ったわけです。人格者になれそうじゃないですか? あれを真似したら、他者に不快感を抱かせる人間にはならなさそうです。

……いや、ほんとか?

そう、確かに疑問符つきではあるんですけども。でもその疑問符が大事。

「そりゃそうでしょ」

はい!そりゃそうですよね!(若干無理やり感のあるオチで恐縮です)

 

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