「わからん!」と叫びそうになったとき思い出したいこと

理解不能な出来事に直面したとき、首をかしげてかしげて90度くらい曲がっちゃってるんじゃないかという錯覚に陥ることがあります(実際の角度は多分45度くらい)。

例えば対人コミュニケーションにおいて。人は五感を通じて外界の情報を受け取るわけですが、その情報の取捨選択や意味づけの方法は人によって違います。異文化の風習や価値観、時代背景の違いによって、さらに理解が難しくなることも少なくありません。

でも、それ以上に困惑度が高いのは、一見自分とよく似ているように思えるのに、性格や気質が違うために意味づけのプロセスがまったく異なっているパターン。

人それぞれ違うのはわかっている。けど「どうしてそうなる???!」と不思議に思えて仕方ない。「OSが違うんだよ」みたいな例え話で説明されると「なるほど」といったん納得はするんだけれど、しばらくすると「いやでもなんでよ???」と疑問が再燃してしまう。「自分のシステムが是」という思い込みもあるのだろうと思います。

だから、できるだけフラットに、曇りなきまなこで見定め理解しようと努力するわけですが、わからないものはわからない。それが当然といえば当然の状態でもあるのですけれど、わからないことをわからないままにしておくのもけっこうストレス。「?????」と思い続けるのも疲れるからさあ。

でも、この「わからない」という感覚が大事なんだろうとも思います。すぐに理解できないのは自然なこと。時間をかけて向き合えば理解できることもある。そう信じたい。それに頭で理解できていれば、感覚が追いつくのはあとからでも大丈夫なのかも。その過程で脳は新しいことを学び、少しずつ成長していくはずだから。多分。そうであってくれ。

だから、「わからない」という状態に叫びそうになったときこそ思い出したい。「わからない」は、新しい世界に近づくための第一歩。

今は理解できなくても、時間をかけてじっくり向き合えば、少しずつ、ジワジワと、小さな「なるほど」が積み重なっていくはず。そして、そのプロセスそのものが、意義あることなのだ!

そんなこんなで、日々新しいことを学ぶチャンスをたくさんいただいて感謝感謝と言い聞かせているわけなのですけれど(って前回も似たようなこと書いたよな……)、世の中には自分の考えの及ばないことが多すぎて途方に暮れている今日この頃です。

 

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