「気分には波があるなぁ」と実感した日のことを書きます。
ここ最近、私にしてはわりと調子がよかったんです。というか、もう病気になってから一番じゃないかってほどに希死念慮がかなり弱まったのです。今までどんなに調子がよくても希死念慮は変わらず存在していたのに。だから驚きました。人間は変化する生き物なのだと改めて実感いたしました。
やっぱり頭で理解することと、心で感じることは別物みたいです。脳と心はどう違うのか、そのあたりの話はよくわかりませんけれど、希死念慮に関しては、理詰めでなくせるものではない。弱まるときには弱まるし、強まるときには強まる。論理で納得しているかどうかではない。と、この度のことから思われるのであります。
そして、調子の良い日々が続くと、多少の期待をしちゃったりするのです。「まさかとは思いますが、私の希死念慮は去ってゆくのですか」と。
残念ながら違いました。
ボーナスタイムは終了しました。
ある日、情緒がおかしくなりました。わけもなく涙が出ます。目が覚めた瞬間泣いています。起床後、洗顔したあとにまた涙が出ます。ご飯を食べる前にもまた号泣です。
わけがわかりません。
悲しくて泣いているわけじゃないのです。悲しいことは何も起こっていないし、つらいと感じているわけでもない。笑い顔を作ることだってできます。
だけど油断すると涙が出てしまう。「さっき読んだあれ面白かったなぁ~」と全然違うことを思い返しているときにも涙が出てくる。
なぜだ。わけがわからない。
いいえ、違います。わかります。わかるのです。
そう、このわけのわからなさは鬱です。
経験したことのある方なら、この感覚、よくわかることでしょう。
いやはやそれにしても、鬱の到来が唐突すぎる。
「そのうち終わる、きっと次の波が来る」、そう予感していたとは言え、いきなり来られたら困る。「来ちゃった♡」とか言ってアポなし訪問してはいけないって習いませんでした?
いや前日あたりから多少の陰りはあったし、近いうちに来るだろうと覚悟はしてたけど、いきなり&デカすぎよ、もうちょっと加減してくださいよ、まさかこんなとんでもない大波がくるとは思わないからさぁ……
などと文句を言いながらも、実はそんなに怒ってない。希死念慮はなじみ深い。久々の死にたさに安心感さえ抱いたのです。日頃、うつをアイデンティティにはしないぞと思っているけれども、すでに十分そうなっているのかもしれません。
まあそういう面があったとしても、躁になってぶっ飛んでいかないためのイカリ(碇?錨?どっちだろう)としての役割を果たしているとも感じるので、どうにかしようと思わず、ありのままの状態でうまく付き合っていきたいなと思います。