『フジ子・ヘミング パリ・下北沢猫物語』を読みました。
猫と音楽とともに生きるピアニスト、フジ子・ヘミングさんのフォトエッセイです。
フジ子さんが飼っている猫の写真がたくさん載っていて、パラパラめくるだけでも楽しめます。エッセイも短めなので、一気に読み終えました。
この本には私の憧れている生き方が示されていました。
読み終えてから、いろいろと思いを巡らすことがあったので、今日はそのあたりの雑感を書いていこうと思います。
お洒落で不気味なお婆さんに憧れて
私には憧れている生き方があります。
それは、お婆さんになったら黒づくめの服を着て、猫を飼って、謎のお屋敷に住むこと。
近所の子供たちに気味悪がられる、そんな魔女のような、得体の知れない婆さんに強く惹かれている節があるんですよね。
もちろんすべて夢物語。霞を食べて生きる仙人に憧れるのと同じようなものです。
でも、その夢物語を体現してる人がいる。
それがフジ子・ヘミングです。
この本を読みながら、改めていいなぁ~と夢を見させてもらいました。
「フジ子・ヘミング」には、ファンタジー性があります。
耳が聞こえなくなったこと。家庭の事情で無国籍状態になってしまったこと。絶望の中、孤独に生きてきた時間。
メディアで紹介されるエピソードはどれもドラマチックです。そこにピアノや猫、欧州の風景が加われば、それはまるで映画のワンシーンのよう。
『パリ・下北沢猫物語』を読んでいると、物語の登場人物が記した手記を読んでいるような気分になります。どこか浮世離れしていて、それがとっても魅力的。
猫とピアノとお婆さん。絵になりますよね。フジ子さんの佇まいも素敵です。
ラヴェルやユトリロやモジリアニが所々で登場して、さりげなく芸術を感じさせてくれるのもいいですね。とってもムードのある本です。表紙からしてそうですよね。
フジ子・ヘミングへの疑念
フジ子・ヘミングという存在には魅力を感じていますが、メディアに作られている部分があるような気がして、構えているところもあります。パッケージングされた商品にも見えるといいますか……。こんな言い方は失礼なんですけれど。
エッセイを読んでみても「?」と思うところがいくつかありました。
例えば、生体販売とか、疑似科学を疑っていなさそうなところとか。
ちょっと笑ってしまったのは、フジ子さんがパリでピアノを練習するときのこと。その街では音を出していいのが夜の10時までと決まっているそうです。でも、フジ子さんは11時まで弾くのだとか。誰にも注意されたことはないそうです。それで、上に住んでいる人にもこう言われるんですって。
「いつも美しいピアノを聞かせてくれてありがとう」
……え? これって「うるせーな」って意味じゃなくて? だって23時でしょ?
それが正直な感想だったのですが、パリっ子はそんな遠まわしな言い方しないんですかね?
あと、猫のネーミングセンスが独特。フジ子さん自身も「名前はそのときの直感でつけられるから、かわいそうな名前の子もいるわ」とおっしゃっていて、「いやいやいや、だったらもっと可愛い名前考えてあげてよ~」と突っ込んでしまいました。
本の最後に、猫たちの写真とプロフィールが紹介されています。そこで改めて猫たちの名前を眺めてみると、どこか田舎のおばあちゃん的なセンスを感じて、ちょっとノスタルジックな気分になりました。
フジ子・ヘミングの「ラ・カンパネラ」は異次元
せっかくなので、フジ子さんの演奏も聴いてみることにしました。
フジ子さんと言えば「ラ・カンパネラ」ということなので、他のピアニストの演奏と聞き比べ。
結論から言うと、フジ子・ヘミングだけが別次元。
正確に時を刻めなくなったアンティーク時計のようでした。
私の場合、聞くに堪えない音楽は即座に消してしまうのですが、フジ子さんの演奏は、そうはならなかった。
他の素晴らしいピアニストたちの演奏に比べると、テンポはゆっくりだし、音の出し方も粗い感じがします。
でも、引きつけられる。聴くのをやめられない。なぜか聴き入ってしまう。
魔力だ。やっぱりフジ子・ヘミングは魔法使いなんだ。
そう一人で納得しました。彼女は「ピアニスト」ではなく、「フジ子・ヘミング」なんだなぁと。
きっと生で聴いたらすごいんでしょうね。
生き様を見せつけられた気がして、しばらくボーッとしていました。
最後に
『パリ・下北沢猫物語』を読んで、フジ子・ヘミングへの興味はさらに深まりました。
と同時に、疑念も深まりました。
これこそが私の憧れる、得体の知れないお婆さん。
こういう物語の一端にふれると、人生ってなんかいいなと思います。