あぁ、どうしてこの世の中には素晴らしい人がこんなにもたくさんいるんだ!
と嘆いてばかりのナミです。こんにちは。
言いたいことは最初の一文で言い切ったんですけど、ほんとにまぁ、何なんですかね。高性能な人が多すぎやしませんか?
皆、素晴らしすぎるし、ステキすぎるし、眩しいでござるよ。
以前の私なら、もう自分の劣等っぷりに溺れて呼吸困難に陥っていることでしょう。
えぇ、自己評価が極端に低い&理想が高すぎるから、こういうことになるんです。でもねぇ、そう簡単には人の考え方や態度って変えられませんものね。もちろん、変えるように努力はしてるんですけどね。あ、いや、努力と言えるかは微妙ですね……。
素晴らしい人たちの何が素晴らしいかって、そりゃもう全体的に素晴らしいですよね。
- コミュニケーション能力に長けている
- 情報処理能力が高い
- 段取りが良い
- 仕事が早くて正確
- 物事の本質を見抜く
- 論理的
- 所作が美しい
- 語学が堪能
- たゆまぬ努力
- バイタリティー
- 大容量バッテリー・スタミナ抜群!
人それぞれ得意不得意があって、みんな完璧ではないはずなのに、「君にダメなところなんてあるのか!?」という気分になってしまうのです。ものすごい過大評価なんですけど、本当にそう見えてしまうんですよね。
わざわざ言うまでもなく、能力差はあって、低能だからどうというわけではありません。でもやっぱり能力が低いよりは高い方がいいですよね。便利だから。
弱いからこそ強くなれるし、できないからこそできるようになる。そういう自分の伸びしろに注目していけば、周りがどうであろうと関係ないんですけど、完全無視することは難しくて。
だから、こうして嘆いて、ひがんで、いじけるのです。
心の扉、閉店ガラガラです。
己の実力を素直に認めることが成長の第一歩
こういうことを考えるとき、思い出す人物がいます。それは、学生時代の友人です。
彼女は優秀でした。賢いだけでなく、性格も良いし、可愛いし、面白いし……って、改めて書いてみて、どんだけーって感じですね。とにかく落ち度が一つもないと感じさせるような子でした。「すごいなぁ~」と素直に尊敬できる人。そう、人格者です、人格者。
彼女とは本当に仲が良くて、いつも一緒にいました。クラスも部活も一緒。帰るときも一緒。
彼女はいつもやるべきことをキッチリこなしていました。課題も予習も復習も。制服もキレイにアイロンがけして、お弁当も自分で作って持ってきて。私なんて、疲れて何にもできてないのに。何なんだ、この差は!?
で、このことを思うと、スッと納得できるんですね。性能が違うんだな、と。いや、もちろん元々の能力だけでなく、彼女はものすごく努力をしていたと思うんです。それは間違いありません。でもね、私も一応頑張っていたんです。結果にはあらわれていませんでしたが、「ぐぬぬぬ……」と踏ん張っていたんです。カラカラカラカラ空回りしながら。
その結果がコレ。
ずっと「私は努力が足りなかった」「もっと頑張ればできたはず」と思ってきました。でも、違うんです。あれが私の実力だったんです。もちろん努力不足は否めませんし、改善の余地はありました。もう少し工夫してうまくやることもできたでしょう。
でも、そういうのを全部ひっくるめて私の実力。
「やればできる」という幻想を捨てることが私には必要だったのだ、とやっとこさ気づいたのでした。
そして、「ここから学んで、成長につなげていこう!」と熱く語る口だけ星人がここにいます。
しんどいのに「しんどい」と言えないしんどさを自覚できないしんどさ
要するに、「上を見ればキリがない」という話です。
自分にできることをやる。目の前のことを一つずつ。
ほんと、これに尽きますね。
「無理のない範囲」=「嫌にならない範囲」です。周りの素晴らしい人たちがわんさか視界に入ってくるということは、設定レベルが「無理のない範囲」を超えているのでしょう。「もっともっと!」と欲張りすぎた結果、キャパオーバーして嫌になっちゃってるのかも。
そういうときには既に、素晴らしい人たちの基準(幻想)が最低ラインになっているから、「ありのままの自分じゃダメでしょ!」という意識が強くなってしまって。そうなるとしんどいですね。
でも、「つらいときこそ我慢! それが成長につながるのだ!」という教えが頭をよぎると、そこで力を抜くことに罪悪感を覚えます。
「これしきで、しんどいなどと言ってはならぬ!」
あぁ、なんてしんどいんだ……!
ハイスペックな人に出会ったら拍手喝采 引きこもれ
ここまで書いて思ったのは、人と比べて卑屈になるのは、人様の素晴らしいところを探すのが上手だからではないか、ということです。
それって、とても素晴らしくないですか?(という考え方って素晴らしくないですか?)
周りの人の活躍ぶりを見て、気持ちが萎えてしまうのは、周りの人たちの素晴らしさを目の当たりにしたから。それはつまり、相手の素晴らしいところを感知する能力があるということ。
だから、これからは、「あ~ぁ」と嘆く代わりに、盛大な拍手を送りましょう。
もし、その「素晴らしさ」が巧みに演出されたものだったとしても、それを否定せず、称賛することで、心がどす黒くなるのを防げます。
乾杯の音頭がすんだら、皆が輝く世界(幻想パーティ)から抜け出して、自分の殻に引きこもりましょう。そうやって、無理のない範囲で、確実に進歩を遂げるのです。
結果的に、成長を感じられなかったとしても、それは思い違いです。現状維持は進歩です。維持することはけっこう大変なのです。
自分がものすごくダメに思えるのは、気のせいか、周りの人が素晴らしすぎるだけです。
みなさんが素晴らしすぎるおかげで、私が落第人間・ダメ太郎みたいになっていますから、もう少し手加減してください。よろしくお願いします。
……そんなスタンスで過ごせたら、少しはラクになるでしょうか。「お互い高め合っていこうゼ! 圧倒的成長!」と背中をバシバシ叩かれるでしょうか。
あぁ。
“「やればできる」という幻想を捨てることが私には必要だったのだ、とやっとこさ気づいたのでした。”
このひとこと、ずーんときました。
わたしも「人より劣っているのは努力が足りないからだ」とずっと思っていました。
実際にそうだった部分もあるかもしれません。
でも人には向き不向き、できることできないことがあると気付きました。
なんでもできればいいけど、たいていは無理なんですよね。それって悪いことじゃないです。
わたしは今、挑戦してみたいことがあります。でもそれが「向いていなかったら…?できなかったら…?」と思うと足がすくんでしまいます。大きな挫折をしてそれからめっきり自信をなくしてしまいました。できると思っていたことができなくてショックだったんですね。新しい挑戦、やってみたい気持ちはあるけど自信がありません…。いまはそのことを考えてはもんもんとしています。なんだかぼんやりとした締め括りで申し訳ありません。ナミさんいつも話しを聞いてくださりありがとうございます。
エマさん、コメントありがとうございます。
そうなんですよね、「頑張りが足りないだけ」「やればできる」みたいな意識はありましたね。「努力さえすれば人並み以上になれるんだ」というような他人との比較もありましたし。努力も一つの才能なんじゃないかと最近は思います。あ、これはちょっと言い訳も入っています。
挑戦してみたいことですか、それはいいですね! 何かを素直に「やりたい」と思えるのは素敵なことです。
新しいことを始めるには勇気がいりますよね。挫折を経験したあとは特に。私も何かにチャレンジしようとするときには、つい失敗したときのことを必死にシミュレーションしてしまいます。メリットはないとわかっているんですけど、癖ですね。
思い切ってやってみるのも一つですし、心が決まるまでゆっくりあたためておくのも悪くないですね。どのような選択をしても、エマさんにとってプラスの経験になることは間違いないと思います。
エマさんが満足できる結果が得られるよう、陰ながら応援しています。
このサイトを拝見して、これまでの人生の中で一番励まされました。
ありがとうございます。がんばります。