ゆるさと飄々のあいだで

ゆるさについて前回いろいろ書いている中で思ったんですけど、私は飄々とした人が好きなんですよね昔から。

飄々とした人というのは、マイペースで、つかみどころがなく、周りに流されない。でも、頑固というわけではなく、ゆらゆら漂っている雰囲気もあるのだけれど、誰にも説得不可能な部分も持っている感じ。でもそれを本人は「こだわり」とも思っていなくて、ただ自然体に、そうあるべくしてそうなったという感じで、なんか知らんがそこにある、そうなっている的な。

そういう人を見ると、不思議と安心します。きっと、自分自身が、踏み込んでほしくないと思っているから、干渉してこなさそうな在り方に居心地のよさを感じるんだと思います。

 

でも、「飄々としている」と言われて嬉しくない人もいるようです。実は内心でものすごく無理していたり、感情を押し殺していたりするのに、それが伝わらず「余裕そう」と誤解される。それどころか「飄々としている」とまで言われてしまう、そんなギャップに苦しんでいる人もいるらしい。

言われてみれば確かにそうか、そういうこともありうるよなぁ……と今さら気づかされました。

自分が憧れていた「飄々」は、努力によって作られた装いだったのかもしれない……?

 

思い返してみれば、私が飄々タイプだと思っている人の中に、かつてうつ病を経験したと言っている人がいました。

当時は、その経験が今のその人の達観した雰囲気を作っているのかなと捉えていたのですが、もしからしたら、その人も、必死に装って何かを隠していたのかもしれない。だとしたら私は、何か大切なものを見落としていた可能性があるってことで、ああなんてことだと小さなショックを受けているところです。

 

私にとって「飄々」は褒め言葉ですが、それを口にすることはありません。それは、心のどこかで「純度100%の褒め言葉にはならない」と思っているからですよね。

よくよく考えてみると、「飄々としている」って常人からかけ離れているみたいな意味合いもあって、言葉の響きにどこか「他人事」のような冷たさも感じます。

だからたとえば、みんなが真剣に汗をかいて作業しているよ、という背景があって、その中で「あなたはいつも飄々としていますね」と言われたら、それはたぶん嬉しくない。

 

「ゆるさ」にせよ「飄々」にせよ、言葉は文脈によって意味合いが変わります。

私が誰かの在り方に魅力を感じたとき、その背後には見えない葛藤があるのかもしれない。

そういう部分に目を向けられる人になりたいものだなぁと思いつつ、やっぱり飄々とした態度、超然とした在り方に憧れの眼差しを向けてしまうのでした。

 

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