「私が悪いんだ」と自分を責めてしまうとき、どうやってその思考を和らげたらいいのでしょうか。
その答えを考えるときにいつも思い出す話があります。芥川龍之介の「闇中問答」です。
「闇中問答」では、目に見えない謎の声と「僕」がひたすら対話を重ねます。
その中にこんなやり取りがあります。
或声 しかしお前の責任はどうする?
僕 四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ。
私の責任は四分の一だけ。これを思い出すと、ちょっと自責の痛みが和らぎます。そして実際、100%自分の責任ということはありえないので、これはけっこう正しかったりもする。
という話を実は前にも書いているんですけれども。
「全部自分が悪い」と叫ぶ君に捧ぐ、ある文豪の弁明『闇中問答』より
このときは、この一文を読んで「へ、屁理屈!」と思ったのですが、今はそうは思わない。四分の一かどうかはさておき、「まあ確かにね~、そうかもね~、ははは」という感じ。
生きていると、どうにもできないことがあまりにも多すぎる。もちろん、だからといってすべて放棄していいわけではないのですが、全部背負う必要はないんだよってことは理解しておいたほうがいい。
同時に、自力で変えられる部分は限られていたとしても、自分次第で変えられる部分も間違いなくある。ここも忘れてはいけません。
で、じゃあ私はどうすればいいんだという問いへの答えは見つからないままなのですけれど。
「闇中問答」で語られるさまざまなトピック。ゲーテ、ワーグナー、ゴーギャン、シェイクスピア、近松門左衛門、オスカー・ワイルドなどなど、さまざまな人を引き合いにだしながら、「僕」は語ります。
「どう生きるべきか」
「信じるとは何か」
「人間の弱さとは」
自問自答の繰り返し。芥川の心の声が伝わってくるようです。自身の内面を掘り下げて、時に恥ずかしいくらい繊細で個人的な葛藤も感じられます。
「闇中問答」は、昭和二年(1927年)の遺稿とありますが、この原稿は発表する前提で書いたものなのでしょうか。もし個人的な文章として書いていたのだったら……?! 文豪はその偉大さゆえに何でも公開されちゃうのがつらいところですね。まあ読者としてはうれしいけれど、どうなんでしょうかね。完全な創作として読めばいいのか、あるいは遺書として受け止めればいいのか……。
いずれにせよ、そういう鋭敏さや自己開示っぷりに励まされたりすることもあるわけなので、感謝です。
龍之介ありがとう! 私はぼんやりとした不安と付き合いながらもうしばらくやっていくよ。