漠然とした「許たれたさ」

なんかずっと許されたさがあるんですけど、これって何なんでしょうね。誰に何を許されたいのかよくわからないのですけれど。存在の承認を求めているということなのか。どちらかというと無を願っているけれど、まあそれも根源は同じなのでしょう。

「許されたさ」についてもうちょっと考えてみると、悪いことをしてしまったことに対する許しもあるし、「ここにいてもいい」「存在してもいい」と言ってほしい気持ちもあるのだと思います。

「無を願っている」というのは、「存在していいのか」という不安だったり、「生きているだけで迷惑をかけているのかもしれない」という漠然とした自責感だったり。

「自分はここにいてもいいのか?」と問うとしたら、答えは「YES」です。「自分はここにいてもいい」としか答えようがない。だって「NO」ではないから。「NO」とは言えないから。

なんでしょう、人に問われたら素直に「YES」と言えるのに、その問いを自分に向けると、途端にシビアになってしまう。

「存在そのものが祝福されている」という考え方も理解できるし、素敵な言葉だと思います。でも、どちらかといったら、「人間は生まれるべきではない」のほうが納得できます。大賛成はしないけど、間違っているとは言えない。現時点で思いつく中では一番ましな、理不尽に対する消極的な答えだと思います。口に出すことはない、ここだけの話です。

この世の中には、つらい思い苦しい思いをしている人がたくさんいるのに、自分は毎日のほほんと生きていてさぁ……。そのことに対する後ろめたさがあります。自分を肯定することと、世界の痛みに心を寄せること。この二つは矛盾しないけど、その両方を抱えて生きることは簡単ではない。

心身の調子が乱れて鬱寄りになってくると、こういった感覚が強まってくる感じはありますね。ってことは、黄信号だから、気をつけたほうがいいよというサインなのかもしれません。

躁状態になったら、「存在そのものが祝福されている」という考えに諸手を上げて大賛成するテンションになるので、やっぱりある意味幸せだよな~と思ってしまう……。うむ、やっぱりちょっと危険かも。鬱気味のようです。ご自愛ご自愛、ごきげんよう。

 

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