椅子取りゲームはもうやりたくない

椅子取りゲームって嫌なゲームだよねとふと思いました。なぜそんなことを思ったのか忘れましたが、よく思うことです。比喩としてもよく使われるし、その流れですかね。

子供の頃も好きではありませんでしたが、今だったらもう絶対にやりたくない。社会における椅子取りゲームに敗れて、まだそんなことをやらねばならんのかみたいな気持ちがあります。いや、まあ勝ち負けなんてナンセンスだよってクールに言えたらいいんですけどね。なかなか内面化された古い価値観は取り除けないもので。まったく困ったものです。

いやしかしホントに趣味の悪いゲームだなと思うんですけど、子供の頃はそれなりに楽しめていたのかなぁ。でも、決して好きではなかった。勝つために他人を押しのけるのとか嫌だし、負けたときの惨めさも嫌だったし。さらし者にされるみたいな恥ずかしさ、仲間はずれにされたような寂しさや悲しさ、いくら一時のものとはいえ、そういうものは確実に感じていたわけで。

まあ自分が勝ち続けていたらそんなことも思わなかったのかもしれませんが。それはこの社会においてもそうでしょうね。

限られた椅子を奪い合う、競争の連続。椅子取りゲームとは、そんな社会の厳しさを知るためのゲームなんでしょうか。あるいは、敗北を味わうためのゲーム? なかなかシビアな教育ですなぁ、なんだかなぁと思ってしまいますけれど。

それで、一体なんのために椅子取りゲームなんてやるんだろうと思ったんですけど、教育の狙いとしては、「ルールを守って遊ぶことを楽しむ」とか「音楽に合わせて体を動かす」とか「集中力を養う」みたいなことらしいです。ふ~ん。

フルーツバスケットは椅子取りゲームほど嫌悪感なかったと思うんですよね。外野にほっぽり出されることがないからでしょうか。鬼になるのはいやだけど、どこかに座れる可能性は高いし、ゲームに参加できなくなるわけじゃないから(連続で鬼になっちゃう可能性はあるけれども)。

となると、疎外感がつらかったってことなんですかね。勝ち負けがわかりやすく出ちゃうとことか。

というかフルーツバスケットのルールをもう忘れていて、かなりあやふやだってことに気づきました。そういえば、なんでもバスケットとかもありましたよね。

 
それはさておき、椅子取りゲームはどうやって生まれたんだろうなと思ってGoogleさんに尋ねてみたのですけれど、これといった答えは見つかりませんでした。が、各国の言語でいろいろな呼び名があるとWikipediaに書いてあって、これがおもしろい。

ドイツ語だと、椅子取りゲームは「エルサレムの旅」という名前だそうです。ここに歴史がありそうな予感。ユダヤ人を連れて行く船のスペースが限られていたという話が書いてありますが、ソースは確認できず、説としては弱い。十字軍だとか、ディアスポラからイスラエルに移住したユダヤ人、アリーヤー(移民)だとか、ヒントにはなりそう? まあいずれにしても、社会は厳しいのう…という話になりそうだからまあいいやという気分なんですけれど。

そんなこんなで、椅子取りゲームって嫌なゲームだよねという気持ちに、新たなイメージが付与されました。

人と競うのは楽しくないけれど、新たな知識を得るのは楽しいのでよかったです(よかった)。

 

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