吾輩はボンクラである

吾輩は猫様である
自分のことを「ダメな奴だ」と思っちゃうことってありますか?

私はしょっちゅう思ってしまうのですが、「ダメ」って言葉はくせ者で、意味に幅があるから何にでも使いやすく、その結果、ちょっとしたことでも「ダメ」と言ってしまうから、よろしくありません。

できなかったから「ダメだ」
情けなくて「ダメだ」
何をやってもうまくいかない「ダメだ」
将来の展望が見えない「もうダメだ」

くり返し書いていると、さすがに滅入ってきますね。でも、とても馴染み深い言葉です。

 
以前「私はダメ人間だ」と言う代わりに「私はうんち人間だ」と言おう、そうすれば気分が変わる、という話を書きました。

参考:「私はダメ人間」が口癖の人に伝えたい私的大発見

本当に、言葉一つで印象はかなり変わります。だから、自分を否定したくなったときは、できるだけマイルドな言葉を使うのがおすすめ。

 
で、最近また「お、コレいいかも?」と思う言葉を見つけました。

それが「ぼんくら」です。

「ダメ人間」と自らを貶めるより、どこか、ほんの~り、のどかな雰囲気を感じませんか。

のどかは漢字で「長閑」。「閑」は、することがなくて、ひまなこと。つまり、長い暇。

そう、ダメとかクズとかクソバカみたいな殺伐とした感じがしません。ちょっとおまぬけさがあるような気もします。抜け作とか、とんちんかんとか、木偶の坊とか、ウドの大木とかいった言葉と共通する柔らかさと言いましょうか。いや、まぁ、どれも言い方によって刺々しくなったりもするんでしょうけれども。

 
「ぼんくら」とは、ぼんやりしていて、ものがわかっていない様子、また、そういう人のことを言います。漢字で書くと「盆暗」。広辞苑によると、

もと、ばくちの語で、采(さい)を伏せた盆の中に眼光がとおらないで常に負けるという意(広辞苑第五版)

つまり、サイコロ賭博の場(=盆)で、勝負の行方が読めないで負けること(=暗)を「ぼんくら」と呼んだわけですね。

でも、伏せた盆の中に眼光がとおらないのは誰だって同じでしょと思ったら、こんなふうに書いているサイトがありました。

サイコロ賭博などで勝負の行方は誰も読めないものであり、手数料収入により必ず儲かることになっている胴元以外、そこに集まっている連中はみんな「ぼんくら」といってもいいようなものである。(ぼんくら、盆暗 – 笑える国語辞典

そう、そうなんですよね。さらにダメ押しにこんな文言も。

ということは、まぁ、少数の成功者にいいように操られているわれわれ庶民の大半は「ぼんくら」なのである。(同上)

わはは、そう、そうなんですよ。滅茶納得。我々は、少なくとも吾輩は、ぼんくらなのである。

一応念のために断っておくと、こちらのサイトは、軽はずみな表現があることを注意点として挙げているジョークなサイトで、筆者や編集者は不明です(著者情報にはKAGAMI & Co.とありますが)。

 
辞書によっては「負けること」と書かれていないものもあります。例えば新明解国語辞典では〔もと、ばくちでさいころを伏せた盆の中の見通しがきかない意〕と記されています。盆の中はみんな見えないわけで、大方はぼんくらだよね、という先のような考えが反映されているのでしょうか。

まぁいずれにしても、ぼんくらな人は、

  • ぼんやりしていて目端がきかない(明鏡国語辞典)
  • 物事の見通しもきかず、特別すぐれた能力も無い平凡な様子(新明解国語辞典)
  • うつけもの(広辞苑第五版)

であると。

要するに、どっちかというとダメ寄りな人。なんですけど、「ダメな人」と言うよりはマイルドですよね。

 
というわけで、「私はなんてダメな人間なんだ」と言いたくなったときは、

「すいやせん、ぼんくらなもんで」

とか言ってみると、落ち込んだ気分が少しは紛れるかもしれません(紛れないときは、さっさと布団を敷いて寝ましょう)。

うんち人間」とあわせて、用途に応じて使ってみてください。何か面白い雰囲気を感じられるかもしれません。

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