余裕がなくて死に惹かれたとき私の脳裏に浮かぶもの

ライブ中に掲げたスマホに表示される「HEAVEN」

死にたいと思うことはありますか?

喜びを見い出せない毎日。
自分が無価値に思えて、死を願う。

「私なんか死んだ方が世のためだ」

生きるのがこんなにもしんどいのはなぜでしょうか。

今日は、自己破滅を願ってしまうときの心境や、人や自分から「死ね」と言われたとき思い浮かべるものについて書きました。

本当はちょっとした日記のつもりだったのですが、気づいたら「即死」に行き着いてしまい、タイトルと書き始めの内容に温度差があったため、今こうして前書きをつけ加えています。

余裕がないと物事を肯定的に受け止められなくなるなぁというのが全体を通した感慨です。

画面真っ暗で何も見えない

先日、いつも使っているパソコンをWindows10にアップグレードしました。今まで使っていたWindows7に満足していたので、アップグレードはしないつもりだったのですが、「けっこういい感じだよ~」なんて話を聞いて、軽い気持ちでやってみることにしました。

が、まぁー手こずった。画面が真っ暗になってしまいまして。「はい、やる気なくしたー」ってなりますよね。「あぁ、やっぱりアップグレードするんじゃなかったな」「すぐ元に戻そ」などと後悔しながら、数日かけてこちょこちょやっておりました。

そしてついに、目の前に見慣れたデスクトップ画面が! その瞬間、世界に光が射し込んだのがわかりました。喜びと安堵感。うまくいって、私はとってもご機嫌になりました。

人間ってこんな簡単に気分変わるんだな~と思いました。こんなに小さなことでも気分が変わるんだから、人生うまくいってりゃ、そりゃご機嫌だわな(僻み)、とも。もちろん、どんなに楽しそうにしている人でも心から楽しんでいるとは限らないし、本人にしかわからない苦しみや悩みはあると思うんですけど、比率的にね、画面真っ黒の状態がずーっと続いていたら、とてもじゃないけどルンルンにはなれませんよね、真っ黒画面と格闘する自分の隣で華やかな画面を楽しんでいる人がいたら、惨めで虚しくなっちゃいますよね、と。

「私なんか死んだ方が世のためだ」

なんか息苦しいのは、世の中みんな余裕がなくて、優しくなれないからじゃないかとよく思います。「人による」とか「主語がでかい」とか思いつつも、ふとしたときにそう感じてしまうんですよね。もっと穏やかにいこうよって。

でも、「のんびりやろう」なんて呑気なことを言ってられない状況はいくらでもあります。むしろ、そういう状況の方が多いのかもしれない。

今、私がこうやって便利な世の中で暮らせるのは、たくさんの人たちのおかげです。そのことに心から感謝すると同時に、どうしようもなく申し訳ない気持ちになります。

以前の私なら、どうやって自分を抹殺するか考えて、その後処理でさえ、誰かの手を煩わせてしまう、どうしよう、どうやったら迷惑を最小限にできるだろう、など延々と頭を悩ませたと思います。いや、今でも思うことはあるんですけど、真剣度が違いますね。天井からつるしたロープを前に「死ぬしかない」と唾をのみ込むのと、ゴロンと転がってお尻ボリボリ掻きながら「はぁ~、死にてぇなぁ~」とぼやくくらい違いがある。今の私はその間ですかね、お尻ボリボリ掻きながらではないから。それはともかく、以前は疑うことなく自分を殺さなければいけないと思っていました。だって、私みたいな人間が生きていても迷惑なだけで、これほど無駄なコストはないでしょう? と。

社会の一員として働き、人の役に立つことは本当に素晴らしいことです。例えば、医療関係者の人たちがテキパキ働く姿を見ると、私は本当に心を打たれます。医療だけではありません。人々の暮らしのために昼も夜もなく働く、そういう人たちがいるおかげで、私はこうして生活ができる。なんてありがたいんだろう。

 
こういう話は私を心底落ち込ませました。

「ほら、やっぱり、私みたいな役立たずの人間は死んだ方が世のためだ」

そして、考えれば考えるほど、あちらこちらに矛盾が生じて、ますます苦しくなる。
 

何をするにも向き不向きがあるからね。そう思うしかありません。そして、実際そうだと思います。役割分担。適材適所。

穏やかじゃないですね

現実的には簡単に解決できない問題もたくさんあって、なかなか余裕を持てないし、穏やかな気持ちでいられないこともあります。毎日がつらい。自分に優しくできない。人の言うことも素直に受け止められない。言葉のどこかに必ず自分を否定する要素があるように感じて警戒してしまう。

実際、平気で人の心を踏みにじったり、善意や正義のふるまいで殴ってきたりする人がいます。そういう人は嫌だと思うけれど、立場が違えば、自分もそうなっていたかもしれないと思うこともあります。

「きれいごと言いやがって」「偽善者め」などと憤っている人もいます。そういう人は何に怒っているのかな? と考えると、心の柔らかい部分が見えてきます。私も「はぁ? そんなのきれいごとだろ」と思うことはあるし、共通する気持ちを持っているのだと思います。

そういう人(少なくとも私)は、きっと毎日が望み通りのハッピーに満たされていないだけなんだ。だって、Windowsのアップグレードがうまくいったときのご機嫌な私には人を罵るという発想がなかったもの。まぁ、現実はそんな単純なものではないのですが。ご機嫌なときほど饒舌に人を罵る人もいるのでしょうか? だとしたら地獄だ。そうです、ここは生き地獄です。監獄ロックが聞こえてくるような雑多な世界です。

「死ね」とか「死ぬ」とかより「即死」

「優しくない」とか「迷惑をかけている」とか、自分で口にしながら「それって一体どういうこと?」といつも考えます。

「優しい」とは?
「迷惑」とは?

「自分は迷惑な存在だ」と申し訳ない気持ちでいるときには、ざまざまな言葉が否定的に聞こえます。自分に内蔵された翻訳機はそれを「死ね」と訳します。

最近、私の内蔵翻訳機はちょっとずつ精度がましになってきて、何でもかんでも「死ね」に翻訳しなくなりました。でも、本当に「死ね」と言う人もいるので、それは「死ね」と受け取るしかないですね。大人になってからは、日常生活で他人から面と向かって「死ね」と言われることはありませんが、どのような状況であれ、やっぱりこの言葉の衝撃は大きいものです。

「死ね」と言われると、私は「さようでございますか、それでは、お手を煩わせて申し訳ありませんが、今すぐ殺していただけますか、即死でよろしくお願いします」と口にしたらどうなるか想像します。

すると流れるこのフレーズ。

即死即死即死即死即死 即死でたのむぜ

ザ・ハイロウズの「即死」。ヒロトの歌声、マーシーのギター、バンドが生み出すすべてものが、私の卑屈な感情を開放してくれます。私は力をもらいます。そして、現状維持に努めます。それはすなわち、死なないという選択です。

「だから何?」と言われたら「別に」としか言いようがありません。

何が正しいか知らない 何が楽しいか知ってる

とりあえず今は、Windows10のアップグレードがうまくいってご機嫌になったときの気持ちを忘れずに過ごしていこうと思います。近いうちに不具合が生じる予感しまくりではありますが。

めちゃ人生っぽいですね。

 

1 COMMENT

aya

初めてコメントさせてもらいます。毎日毎日胃が痛くて死にたくて消えたくて、布団のなかで毎日過ごしていたある日、たまたまこのブログに出逢いました。初めて読んだ時ナミさんの言葉ひとつひとつが私の心にすっと入ってきて、なぜだかわからないけど、涙が止まりませんでした。今思うと、独りじゃないんだと知れたからなのかもしれません。ナミさんのブログに出逢えて本当に良かった。現在は、波はありますが、布団からでて、テレビを観たり、家族と話したりできるようになりました。笑えるようにもなりました。うまく言えないけれど、ナミさん、たくさんの温かい言葉を、本当に、本当にありがとう。

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