私の迷いを吹き飛ばす絶対的ルール

ブルーのワーゲン・ビートル

人生に迷いはつきものです。

将来の不安に押しつぶされそうになったり、自分が何をすべきかわからなくなったり。

そんなとき、私を助けてくれる言葉があります。

よいことをする。
悪いことはしない。

「私の選択は間違っているのではないか?」と自信を持てないとき、この言葉は大きな力を授けてくれます。

「自分ばかりが損している」「アイツの狡猾さが許せない」と感じたときには、不快感を軽くしてくれます。

私にとっての「よいこと」

普段何気なく使っている「よい」という言葉。これがなかなか不思議な言葉で、考え出すと大抵「わかんねー」という事態に陥ります。

ただ、私が確信している「よいこと」が一つあります。

それは、自分を大切にすること

これを間違いだと否定するのは難しいと思います。

自分を大切にしようとして、好ましくない結果に終わることもあります。

例えば、「好き好き大好き!」という気持ちを相手に伝えたら、関係が悪化したというケース。

残念な結果に終わったとしても、それを覚悟の上でアプローチしたならば、その人はよいことをしたと言えます。自分の気持ちを大切にしたわけだから。

でも、一方的に自分の気持ちをゴリ押しして、相手に負担を強いたならば、それはよいとは言えません。なぜなら、相手を大切にしていないから。

相手を傷つけることは、自分を傷つけることでもあります。言い換えると、相手を大切にすることは、自分を大切にすること。

すべてを同じように扱うことはできません。結果的に誰かを傷つけてしまうことはあるけれど、「自分や相手を一番大切にできる方法は何かな?」と考えることが自分を大切にすることだと私は考えます。

正直者はバカを見る?

ある日、正直者に出会いました。

その人の態度は、長い間、私を悶々とさせました。

風が強い日でした。その人が車を駐車場に止めて降りようとしたときのこと。強風にあおられて勢いよく開いたドアが、隣の車に当たってしまいました。ドアが当たった部分を見ると、1cmほどのへこみができています。塗装も少し付着してしまいました。でも、一見してわかるほどではありません。

さて、あなたならどうしますか?

そのまま何も言わずに立ち去りますか? 
見なかったことにしますか?

その人は、隣の車の持ち主を待ちました。いつ戻ってくるかわからない人を待ち続けました。

そして、持ち主が戻ってくると、ひたすら謝りました。「弁償します」とくり返しました。

そんな正直者。

「隣の車の持ち主」は私です。へこみは本当に小さなもので、言われなければ気づかなかったと思います。「あー、これぐらい大丈夫ですよ~」「まぁ、そんなに目立たないし」と言っても、その人は「いや、でも……!」と譲りませんでした。

そんなこんなで、車を修理に出すと、料金は7万ちょっと。もう逆に申し訳なくなってしまって。

それからモヤモヤです。「もっと強く『弁償は不要』と言うべきだったんじゃないか」とか「『正直に謝ったのに弁償させられちゃったよー』って思ってるかな」とか「でも、へこんでるのは嫌だよね」とか「こういう生き方してると損するだろうな~」とか考えて。

でも、その人は、私を待っていたんですよね。黙っていたら絶対にバレないのに。

自分の過失を隠したり、ごまかしたりしない。人の大切なものを傷つけたらきちんと謝る。

正しい行いをした事実。それだけでその人は報われているんだ。そう思い至ったとき、私の中のモヤモヤは少し晴れたのでした。

とは言え、現実的にそんなことを言っていては、騙されて利用されて痛い目を見ることもあるでしょう。正直者のその人も、修理代を払うときにバカ正直な自分を呪っていたかもしれません。

そのあたりは、バランス感覚が求められるんでしょうね。正直であることはよいことですが、そこにこだわりすぎると、自分を苦しめることになるかもしれません。必要以上に自分を苦しめることは、よいことではありません。

「自分や相手を一番大切にできる方法は何かな?」

なかなか難しいものですね。

自分が「よい」と思うことは本当に「よい」のか?

よかれと思ってやったことが、相手を傷つけたり、ありがた迷惑だったりすることもあります。

どうやら「よい」「悪い」は、時と場合によって変わるようです。

社会のルールも、時代や文化圏によって大きく異なります。

戦争中は、敵をたくさんやっつけた人が英雄。平和な世の中では、人殺しは悪。

こうなると、絶対的な善悪なんてないような気がしてきます。

でも、どんなときでも「人を殺すのは悪いこと」という意識は、多くの人が持っているのではないかと思います。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」

この問いに、すべての人が納得できる答えを示すことはできません。

それでもやっぱり私の中に「人を殺すのは悪いこと」という強い認識があります。

「なぜ?」を何度くり返しても消えない答え。これこそが、自分の信じるべき基準なのかなぁと感じています。

誰かの答えではなく、「私」の答え。さまざまな価値観を知った上で、「よい」と思える答え。

「私」が「よい」と信じる生き方。

まだまだ答えは見つかりません……。

よく生きるための覚悟

私は全然覚悟ができていない人間なので、ここまで書いてきたことは単なる妄想だよなーという思いがあります。

それでも不思議なことに、

よいことをする。
悪いことはしない。

この言葉を唱えると、ヘニャヘニャな心がシャキッとするんですよね。

以前の私だったら、世間にウケがいい「よい」を実践しようとして、息苦しくなったと思います。でも、人様の基準を借りて、中身からっぽの張りぼてを作るくらいなら、自分で作り出した中身ギッシリの鼻くそをほじっている方がましなんじゃないかと考えるようになりました。

己の意志を貫き通す。

人に何と言われても、自分が「よい」と信じたことをする。その結果、何が起こっても人のせいにしない。損失や制裁を引き受ける。

それが責任をとるということなのだ。

……と身をもって証明できる人間になりたいものです。

2 COMMENTS

Tomo

うつ病もちの女性です。
日々、無気力で自分の軸もなにもなくなっていってもうだめなのかと何度も思っていました。
自分がよいと思っていたことをした結果、ものすごく傷つく形になってしまった過去があります。それは、自分を大切にしていなかったから。、、、
ナミさんのブログをよんで、今の私でもオッケーなんだ、これからゆっくり、いきていくことができるんだと、ほっとしました。
ありがとございます(^^)

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鷹れん

初コメ失礼いたします

「よいことをする。悪いことはしない。」
シンプルイズザベストですね。なんだか心が軽くなりました
「よい」の尺度は人それぞれで、私の場合は“結果に関わらず胸を張って「私の選択だ」と言えるかどうか”です。なんだか長ったらしいですが、この言葉が一番しっくりきます

選択をしなければならなくなったとき、いつもその考えを思い浮かべられるわけではないけれど
やっぱり困っていそうな人がいたら声をかけてしまうし、転んだ人がいたらハンカチを差し出してしまいます。
その全てがよい結果に結びつくわけではありませんが、
声をかけずにモヤモヤした気持ちを抱えるよりも、転んだ人の隣を通り過ぎてチラチラ振り返るよりも、行動してしまったほうが、「私は」よいと感じてしまいます

最近、これでいいのだろかと悩むこともありましたが、このブログを読んで「今のままでいいのかも」とすこし思いました。
ありがとうございます

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