行間を読むのは難しいし心を開くのも簡単じゃない

ジャンプ!

相手のことを100%理解することはできない。

そんな当たり前のことを思いました。

相手が発する言葉は全体のごく一部でしかなくて、それだけですべてを理解することはできません。自分が目撃していない限り、相手の言うことが事実かどうか確かめることもできません。目撃していたとしても、やっぱりそれは第三者として目撃したにすぎなくて、当人が目撃した景色とは違います。

だからこそ、その溝を埋めるために対話をすることが大事。

これまた当たり前のことですが、気持ちが揺れ動いて興奮すると、そんな当たり前をすっ飛ばして先走ってしまうことがあるので、ちょっと落ち着け、オレ! という自戒です。

……と思ったら、ちょうど1年前にも似たようなこと書いてました。

人の気持ちを100%理解することはできない

 
【追記】
公開したものを読み返してビックリしたのですが、このページは全体的に目が上滑りします。書いた本人でさえそうなので、これを読まされるのは大変な苦行と言えるでしょう。あらかじめご了承ください。
 

「わかったつもり」に要注意

人は本音と建前を使い分けています。相手の話していることが本当とは限りません。本当のことを言おうとしても、言葉にした時点で別物になってしまうこともあります。真実を語るのはすごく難しい。

相手のことを100%理解することはできないと言いましたが、言い換えるとこれは、理解している部分もあるということ。でも、私はその部分について本当に理解できているのでしょうか。その人が存在していることさえ疑わしいとか言い出すと収拾がつかなくなるので、その人の本心はわからないよね、あたりでとどめるにしても、やっぱり多くはわからないわけです。「いや、私は彼・彼女のこと理解してる!」と思っても、それが思い違いである可能性は多分にあるわけで。

私はこれまで(特に病気になる前)そういう「わかったつもり」がすごく多かったんだなぁと感じています。人の話をきちんと聞いているつもりでしたが、ただ相手が口にする言葉を受け取っているだけで、相手のことを理解するとはどういうことかわかっていませんでした。自分では「相手のこともっと知りたい、もっと理解したい」と思っていました。相手が困っていれば何か力になりたいと思って一生懸命話を聞いていました。でも、実際には「どうやったら好かれるか」「どうやったら相手を喜ばせられる自分になれるか」という自分本位な態度だったんですよね。

いや、本当に相手を大切に思う気持ちを持っていたことは間違いありません。好きでなければ、相手の話を聞くことはしません。でも、相手を理解しようとするときに「自分がどう見られているか」という視点は必要ありません。にもかかわらず、人の話を聞くときにさえ、自分がどう見られているかを常に意識している。自意識まみれの不自然な相槌。相手の話を聞くこと以外に注意が向いている私は、「相手のことを思ってる!」と胸を張って言うことはできないよなぁと。

そんなの誰だってそうだよと言われれば、そうなのかなと思います。「自分のことを一切考えずに、相手のために尽くす」「聖人か!」と私の中のタカアンドトシはやっています。いや、聖人だって自分のことを一切考えないなんて絶対に無理。だって、相手の言葉を受け取って解釈するのは自分。何をするにも自分成分は含まれます。

だからこそ、人と話をするときや、誰かの言葉を受け取るときには、「その解釈は自分の希望的観測ではないかい?」と問わなければいけないなぁと強く感じています。

 

善意は無下にできない

「あなたのことを理解したい」「あなたの力になりたい」という善意が先走って的外れなことを言ってしまうと、相手を戸惑わせることになるかもしれません。

自分では的外れなことを言ったつもりはないし、自分の気持ちを押しつけたつもりもない。そう思っていても、相手が何と思うかはわかりません。

というのも、これまでの自分の行いをふり返ってみると、「あーアレ間違えたなー」と反省する点が多々あるんですよね。いちいち謝るほどじゃないけど、ずっと引っかかっていて「ごめんね」と思っているようなこと。そういうときって大抵、対話が足りていないんです。

話を聞くときは、まず事実確認をきちんとする。「相手の気持ちを思いやる」はそのあと。間違った前提で相手の気持ちを思いやったって、それは的外れな答えでしかありません。

そんでもって、たくさん話をしたとしても、相手の言葉が真実を語っているかどうかはわからない。あえて本音を隠しているかもしれないし、うまく言葉にできなくて「本当に言いたかったことは違う、違う、そうじゃ、そうじゃない」とモヤモヤしているかもしれません。

信頼関係を築くためには、膨大な時間をかけて話をしなければいけないということですね。多分これでもかというくらい時間をかけて話し合っても、「ほんの少し相手の思ってることがわかったかな?」程度なんじゃないかと思います。たとえ衝突しても、好きな相手と過ごす喜びが大きければ、こういうステップは「せねばならぬ!」というものではないでしょうし、微笑みにわかった顔しないでいつだって気持ち素直に伝えようと鼻歌まじりに相手と向き合えるのは素敵です。

 

それなりでいいや

困ったことに私は、話し合ったってわかりあえないことがわかるだけ、みたいな投げやりな態度でわかった気になっているときがあります。わからないという前提があるからこそ、ほんの少しでも通じ合えたら嬉しいし、それって素敵なことだよね! とは思うのですが、ちょっとでも不快な思いをするのが嫌で逃げている臆病者なのです。

別にそこまでして伝えたいことはないし、伝えたら伝えたで誤解されて「そうじゃなくて、こうなのよ」と説明するのもめんどくさい。伝えたい人に伝われば、それで十分。

もちろん、伝えるべきことは相手が何と思おうが伝えるべきだし、うまく伝えるための努力もしなければいけません。どうせ伝わらない人には何を言っても伝わらないからといって最初から諦めるのはよくない。

だけど、やっぱり「そこまでして伝えたい自分の気持ちなんてないっす」という思いが強いんですよね。

伝わる人には伝わると信じている、と言えるのかもしれません。なぜそう思うかと言えば、誰かの言葉一つに共感を覚えて、「わかるーーー!」と興奮することがあるからです。

その「わかるーーー!」は自分の思い違いかもしれないし、言葉を発した人の真意とはズレているかもしれないけれど、「わかるーーー!」という感覚は気持ち良い。たとえそれが自分に都合の良い解釈でしかなかったとしても。いや、自分にとって都合の良い解釈だからこそ気持ち良いのかもしれません。

それで私はテンションがわーっと上がってしまって、自分を見失うことがあるので、できるだけ冷静になろうと努力しています。でも、それを、人と距離を置く言い訳にしちゃってる部分もあるし、やっぱり傷つくことを怖がってるんだなーと思います。

まぁ、できるできないは置いておいて、わからないことを前提として、相手のことを知るために話をよく聞きたいし、その人の表情や声色や身振り手振りにも注目したい。相手の気持ちを引き出すためには、自分がまず心を開くこと。

すぐ「それができたら苦労せんわ」と言いたくなるところも、ちゃんと表現できるようになるといいのかもしれません。言わなきゃわからないから。

と、まとめようとしているのですが、やっぱり「別にいいや」と思っちゃってて、もうどうしようもないですね。

人の気持ちをその人が感じた通りに理解することはできないし、それらを伝えるための言葉も万能ではない。この前提を忘れず、それなりに。

それが今日言いたかったことです。2文ですみましたね。ここまでダラダラ書いたのは何だったんだって感じですね。

でも、思いついたことバーッと書いてスッキリしたので、自分的にはすごく有意義な回となりました。ここで、さまぁ~ず三村さん風に「自己満かよ!」などとつっこんでもらえたら幸いです。

 

1 COMMENT

せり

懲りずにコメントいたします、せりです。
まず、ナミさんはストイックだな~!と思いました。
ここまで考えが回るととても苦しいと思います。私なら苦しいです。
でも、共感は大事にしていいと思うんです。
共感が要らなければ、人と繋がる必要ないですもの。
と言えるのも、密室育児で私が育児ノイローゼになったから・・・かも?
とお茶を濁しときます。
私も臆病者です。
それから、前回のコメント、一部変更。ナミさんは、コーヒー派でしたね。
(てか今もそうでしょうか?)
私、スタバのコーヒーは好きなのです。なのでお店に行っても~(しつこい
ですね(笑))
あくまで気分なので、あまり気にしないでくださいね^^;
気に病ませてたら、ごめんなさい。

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